サミーコイワと風街

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僕が尊敬してやまない作詞家、松本隆さんが生み出された「風街」というまち。松本さんの生まれ育った青山、渋谷、麻布を結んだ三角形のエリアをそう名付けたと小説『微熱少年』で記されているが、見慣れた空き地がビルの建設でなくなったりすると、その空き地が風街に新たに加えられたので、風街の境界線は常に動いていたということだ。

僕は大滝詠一さんと同じ岩手県の県南育ちで、とても松本さんのような都会の原風景は持ちあわせていないが、不躾ながら僕なりの「風街」の風景というものがある。それは僕が1996年に渡米し、妻と出会い、2年半ほど暮らしたカリフォルニア州サンフランシスコだ。

渡米後は市街地の南に位置するSFSU(San Francisco State University)のキャンパス内にある学生寮でしばらく暮らしたが、妻が寮からダウンタウンに引っ越すのをきっかけに、ダウンタウンのNob Hillと呼ばれる一角のアパートで1998年まで共に暮らした。それからは僕は仕事のためLAに、妻は心理学の学位を取って帰国することとなったのだが、滞在していた2年余りの間、港町サンフランシスコにはいつも風が吹いていた記憶がある。ゴールデンゲートブリッジに吹き付ける冷たい潮風、ツインピークスに吹き上げてくる丘の風、そして7階にあるアパートの大きな窓を開けると、サンフランシスコ湾のやさしい海風が部屋を満たした。

松本隆さんは住まいを神戸に移され、第二の風街神戸で新たな一ページを刻み続けていらっしゃるが、僕にとっての風街とは常にサンフランシスコにある。『I left my heart in San Francisco(僕の心はサンフランシスコに残したまま)』という曲があるが、パリ、ローマ、マンハッタンと暮らした主人公が「帰ろう、入り江のわが街へ」と歌ったのがサンフランシスコだ。僕が以前住んだことのある、レコーディングスタジオで徹夜続きの毎日を過ごしたサンタモニカやロサンゼルスでもなければ、全米で最も治安の良い街で常にトップにランキングされるアーバインでもなく、妻とキャンパスの寮で出会い、不安げな僕を常に励まし支えてくれた妻とともに暮らした街サンフランシスコだ。ふざけたことをしても「バカね」と笑ってくれる彼女がいたから僕は無敵だった。

その妻はもうこの世にいない。子育てがひと段落したらまた二人で訪ねたいと思っていたが、それも叶わぬ夢となった。いつかサンフランシスコで『I left my heart in San Francisco』を聞きながら二人で涙したかったが、涙するのはどうやら僕一人だけになってしまった。それでもいつかまた訪ねてみたい。二人でよく通ったスーパーマーケット、レストラン、カフェ、キャンパス、ショッピングモール、ビーチ。二人で乗ったケーブルカーやMUNIという名前のバスと電車。それらを一つ一つ想い出を辿りながら訪ねてみたいと今でも思っているが、きっと残酷なひとり旅になることだろう。幸い、飛行機のチケットを取るまでにはまだ何年もかかるから、それまでに決めればいい。

My love awaits there in San Francisco
Above the blue and windy sea
愛する人が待つサンフランシスコ
青く風吹く海の上

When I come home to you, San Francisco
Your golden sun will shine for me
サンフランシスコに帰れば

黄金の太陽が僕に輝く



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